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日本橋Stories 其の壱(江戸の頃)

   文化・商業の中心であり、人々が行きかう街 - 東京 日本橋。文化・商業の中心であり続ける日本橋の発展は、江戸時代の浮世絵や大正時代の活動写真、また開発が進む現在の日本橋エリアからも感じとることができます。
なぜ日本橋?  
   ニッコールグループ 日光ケミカルズの礎となったアサヒ商会は、戦後間もない1946年に、ここ日本橋でスタートしました。それから69年の間、日光ケミカルズは日本橋の街の移り変わりを見守ってまいりました。今、日本橋の街は再開発が進み、また2020 年の東京オリンピックを前に、「日本橋」を本来の姿に戻す活動などから、再注目されています。そんな日本橋の片隅に所在する日光ケミカルズから、東京 日本橋という街の面白さを、少しずつご紹介してまいります。
徳川幕府 – 江戸時代の日本橋
  日本橋は、東京駅を挟んで現在の皇居(江戸城)の反対側に位置し、町人の町として誕生しました。日本橋がその発展のコマを大きく進めたのは、徳川幕府の時代。徳川家光公が課した参勤交代により、各地の藩主が多くの家臣を連れ江戸城に参勤し、その家臣が城下町を訪れたことによって、街全体が活性化され、文化や商業が発展しました。その城下町の一つが、「日本橋」です。
  現在の日本橋には「日本橋人形町」、「日本橋兜町(かぶとちょう)」、「日本橋大伝馬町(おおでんまちょう)」、「日本橋蛎殻町(かきがらちょう)」など、頭に日本橋が付く町が多くあり、なかには江戸時代からの名残をとどめている町名が今でもあります。日光ケミカルズの所在地である「日本橋馬喰町(ばくろちょう)」も、江戸時代には馬の売買所「博労町(ばくろちょう)」として存在し、それが訛って「馬喰町」となった説があります。その後、旅の準備をする人々の「旅宿の町」として有名となりました。ここ日本橋馬喰町で旅人はおみやげを購入したり、旅支度をしたと言われています。その名残が、現在の馬喰町駅を周辺に存在する問屋街です。
  日本橋馬喰町のお隣は「日本橋小伝馬町」で、吉田松陰が投獄されたことで有名な江戸小伝馬牢屋敷があったことで有名です。そのお隣りの「日本橋大伝馬町」は、「伝馬」または「伝馬の供給場所」として栄えました。大伝馬町の、その先に「日本橋」があります。
  日本橋は五街道(東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道)の起点としても制定され、ここから人々は全国津々浦々を旅し、または家路へと急いだのです。こうしたことからも、日本橋は旅のスタート地点、または最終目的地であったことが想像でき、馬喰町を含む日本橋エリアは現在のターミナル駅のような役割も果たしていたと考えられます。

  さて、ここ日本橋界隈には、人々が行き交うことにより発展した「食文化」や「エンターテインメント」なども数多くありますが、そのお話はまたの機会に.....


馬喰とは牛を鑑定・見極めて市場へ売りに行く牛の鑑定人、仲買人のこと


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